歯を磨いていいですか?

 大体、夜中の0時近くになったころ。酔っ払った夫がとろんとした目で語りかけてくるフレーズがこれだ。歯を磨いていいですか?
 
 私は笑ってどうぞ、と言う。変な話だが、これは私達の間では、風呂に入らず寝てもいいですか?の隠語だ。風呂嫌い、というわけでもないと思うのだが(だって旅行先はいつも温泉だ)彼はどうも酔っ払うと入浴が面倒臭くなるのか、決まってこう告げて。私がどうぞ、と言うが早く一目散に洗面所へ駆けていく。子供っぽいを通り越したなんとも動物的なその振る舞いに苦笑しながら、またこうして平和な一日が過ぎたことにほっと胸を撫で下ろす。幸せなのだろう。少なくとも眼の前でにこやかに笑い、すやすやと眠る相方がいることは、幸せなことに違いない。
 
 そうして過ごしてきたある日の出来事だった。私の前でほんの数時間前まであっけらかんと笑っていた彼は、わけのわからぬ間に自分の意思では動けない存在になってしまった。走る車にやられて脳の機能をどうも損ねてしまったらしい。そんなことを白衣の男が説明するのを聞いていた。聞いていた?ように思う。ただはっきりと覚えているのは「どうか気をしっかり保ってください」というフレーズだけだ。気を、しっかり、保つ。この状況でそれが出来る2足歩行の生き物を、私は人間と呼びたくはない。
 
 日々はガラッと様相を変えた。幸いにも金銭的に困ることは無かったが、私は底のないプールに浮かんでいるような気持ちになった。必死で足をバタつかせている内はなんとか顔を出せるが、気を抜くと沈んでしまいそうになる。いつまでこうしていればよいのだろうか。そしてこうして浮かんでいるだけで、果たしてどこに辿りつけるというのだろうか。奇跡を待つ日々は絶望に限りなく近く、他者の無責任な言葉が騒々しく周囲を舞った。軽すぎて水面にもほとんど届かないそれらを一通りやり過ごすと、完全な凪が訪れた。私はなんとか浮かぶコツを掴めたように思った。
 
 それから、ただ清潔感を演出しているような真っ白い部屋に彼と2人で暮らしている。時折何かのはずみで、遠くから電車の音が聞こえた。普段は聞こえないのに何故だろうと不思議に思うも、彼が旅行に行くときには好んで電車を使ったものだから、その音が聞こえるたびに少しずつ奇跡が近付いている気になった。懐かしい思い出を一人で反芻しては、そっとそっと慈しんだ。ところがどうだ。今朝がたのこと。一際大きな電車の音がした。車輪がキイッと悲鳴をあげる。続いて遠くからサイレンの音。そうして私は全てに気付いてしまって、心底うんざりした。どこにもない。救いなど。
 
 私は座っている。彼の横たわるベッドの傍らに座っている。最近髭を剃って、幾分さっぱりとした私の愛する人は、呼吸器とよくわからない機械に繋がれて静かに眠っている。今すぐ目を覚ましても、何の不思議もないようなその顔を見つめている。そのうちに私はどうにも耐え切れなくなってしまい、小さな声でそっと囁く。「ねぇ、歯を磨いていいですよ?」と。本当は逆なんだけれど、これは二人にしか分からない呪文でしょう?聞こえたよね?私はぐっと目を瞑る。きっと、次に私が目を開けると、彼は犬みたいに顔をくしゃっと歪ませて、洗面所まで走っていく。そして、その後に安らかな寝顔を私に見せてくれるのだと。そう祈りながら。
 
 安らかな、寝顔。
 
 あれ、私はいま何を祈った?
 
 胸の奥がきしっと鳴る。私は何を望んでいるのだろう。何から逃れたいのだろう。恐ろしい量の不安が一斉にやってきて、凪いでいたはずの水面を揺らす。慌てた私は途端に溺れてあっという間に浮かび方を忘れる。頭の先までどぷんと浸かって、恐らくもう二度と浮かべない。水面は遠ざかり身体中がどんどん冷えていく。息苦しさのなか、覚悟を決めて覗きこんだ底に彼の姿がぼんやりと見えた。苦しい。息を。
 
 私は沈みながら彼へ手を伸ばす。息苦しさから逃れるために、それに必死で手を伸ばす。