2021年がおっかなびっくりと始まった

 2021年がおっかなびっくりと始まった。そしてそれは今なお続いている。

 12月に入ってもじりじりと増え続けていく感染者数と陽性率に不気味な感覚を覚えて、帰省を諦めた。友人と「出来ればよいね」と言っていた忘年会も同時に諦めてリモートへ。12月20日ごろだったか。気分だけでも店の感じがいいな~と思い近隣のお好み焼き屋でテイクアウトを頼み、引取りに出向くとほぼ満席。忘年会と思しき8人前後のグループが2組。カウンターもせいぜい2~3席の空席を残して綺麗に埋まっている。席が間引かれているわけでもないし、申し訳程度の間仕切りすらない。くらくらとしながら頼んでいた商品を受けとる。お好み焼きは普通に美味しいのだけれど、もう二度と行くことはないな、と思う。 

 2020年最終日。東京の1日あたりの感染者数が1000人の大台をついに超える。フィクション染みた流れに完全におののいて、物忌み生活がスタート。おかげ様で箱根駅伝を完全に通しで観ることに成功するも、沿道に繰り出している人々にぞっとする。正直なところ、沿道に出て走っている様子を観たいという気持ちは(近隣に住んでいるのであれば…)分からないでもないが、カメラに向かって手を振る面々の神経はまったくわからない。怖くないのか?コロナが、というよりも、批判されることが。

  そこではたと、いま自分自身が恐れているのはコロナそのものというよりも、コロナ禍において自分と違う振る舞いをしている人間ではないか、と思い至る。

 

 先日「正しく恐れる」という言葉について言及する記事を読んだ。その中身とは直接関係ないが、この「正しく」という部分が、いまとても怖い。正しさというのは往々にして主観的な尺度で、定量化できないものごと(それは例えば未知の病に対する恐れだとか)に対するその不安定さと裏腹に、どうにも言葉として強すぎるからだ。自分自身にとっての正しい恐れは、ある人にとっては全くもって正しくなかったりする。そんなことは普通に起きるが、そうなると正しさという言葉は容易に対立を生む。「正義の反対はもうひとつの正義」とはよく言ったものだなと思う。 

 2020年の一年間で私たちはコロナに慣れ過ぎてしまった。恐れが慢性的になり過ぎて、一人一人に考える時間と材料が与えられ過ぎて、結果ばらばらの方角に無数の「正しさ」が出来上がってしまった。そしていま各々が信じるところの正しさに向かって、その歩を進めつつあるように思う。一部の急進的な人々以外はまだ足元がおぼつかないからゆっくりとした動きだけれども、このまま時が過ぎると、自分自身の正しさと別の正しさとの間を行き来することが困難になる気がする。そして、それは分断と呼ばれるものであろうと思う。

  そもそも、いつのまにか自分自身も東京の1日あたりの感染者数が1000人を超える程度では驚きもしなくなってしまった。もしも2020年4月ごろの自分がここに現れれば、自分vs自分の舌戦が繰り広げられることだろう。それぐらいに世の中は大きく動いてしまっていることを、胸に刻んでおく必要があるように思う。正しさという主観的な基準を妄信してしまわないように。

 だから。抱負というほどでもないが、今年は様々なことに慎重であろうと思う。出来るだけ時間をかけてものごとを考える。特に「正しい」とか「正しくない」とか、そんな言葉に対しては要注意のスタンスで臨みたい。カメラに向かって手を振っていた人々から見れば、おっかなびっくり引きこもり生活を送っているこちらが奇妙な、正しくない生き物に見えるはずだから。