折坂悠太/さびしさ MV考察

リモートワーク期間中に良かったことの1つとして、折坂悠太というアーティストに出会えたことが挙げられる。まぎれもなくJ-POPなんだけれど、形容しがたい独特な手触りがあって。フォークとワールドの融合、というのが一番近いだろうか。とにかく素敵な、間違いなく唯一無二のアーティスト。その中でもやたらと刺さったのがこの「さびしさ」という曲。

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最初は良いMVだなあ、という素直な感想を覚えた。日常の風景の中を歌い手の折坂本人が彷徨していて、シーンごとに見せるいくつもの表情がまさに「さびしさ」を感じさせる。でも作品の中にどこか引っ掛かる部分があって。繰り返し観賞しているうちにいくつかのことに気付けたと思うので、つらつらと考察的なことを綴らせてもらう。

MVはアパートの部屋から始まる。そこから公園、役所、河川敷、踏切、商店街、路地裏、作業場、高架下と巡り、またアパートの部屋に帰ってきて終わる。うたの中で語られる「ここ」「このまち」を折坂が巡り歩いているような流れ。とにかく良い曲、良い作品なので、まずはフラットに見てもらいたい。

しつこくもう一度張る。

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まず「あれ?」と思ったのは冒頭0:20~ごろ。部屋から出てリビングを横切ると、親子3人が食事をしている。作業着姿の折坂はそこでいちど立ち止まるのだけれども、親子の誰からも気付かれる様子がない。なんとなく、彼は【周りから見えていない存在】なのかな?ということがここで示される。

そのことに確証を得られるのはかなり後半になるが、4:28~作業場のシーン。折坂が黙々と何かを作っている作業場に【これまで彷徨を続けてきたほう】の折坂が扉をひらいて入ってきて、この場所には同じ人物が2人いる、という非現実的な状態が生まれる。そして併せてなんとなく思うのは、生活に根差した労働という行為を黙々と続けている【これまでの主役では無いほう】の折坂こそが、この世界の住人なのではないか、ということ。

そして、ここで黙々と労働を続けている折坂がつぶやくように唄う。その歌詞が深い。

とんでもないおとし物

おれは遠くに置いてきた

煙に覆われ 海に濡れ

冷たい頬に口つけて

「おれ」は、とんでもないおとし物を置いてきたという。そしてここに添えられる「煙」「海」「冷たい頬」というフレーズ。作業場の暗く陰惨とした雰囲気。現実にはあり得ない2人の同居。そして「さびしさ」というタイトルそのもの。

ここから「死」を連想する人は、少なくないのではないだろうか。

 

なんとなく不穏な印象を抱きながら、MVをもう1度、2度、3度と繰り返した。何か情報を得られないか、という気持ちでいると、手掛かりになりそうなある文字情報が目に留まる。0:50~のシーン。自動扉に書いてある「葛飾区」の文字がなぜかパッと読めたので何となく役所だと決めつけていた。一時停止をして文字を読み解くと「葛飾区」に続いて「立石休日」と書いてある。やっぱり役所か、と思いながら気楽な気持ちで検索をかけてみて、出てきた結果に息を飲んだ。

出てきたのは「葛飾区立 立石休日応急診療所」

平日夜間にこどもクリニックとしても機能している病院。

 

この場所を訪れた彼は迷うことなく、ある1つの部屋の扉を開ける。だがその部屋にあるものは示されず、次の河川敷のシーンに移る。河川敷シーン。改めて思えば、折坂の表情は前までのシーンよりも曇っているように見える。考え込むように草むらに座り込み、寝転がり、重々しげに身体を起こす。そしてまた河川敷の道を歩きはじめた矢先にベビーカーを押す母子と行き違う恰好になるが、母子との距離が近くなると折坂はふっと反対方向、川向きにその視線を逸らす。するとまたカットが変わり、両者が交差してすれ違ったはずの瞬間は折坂の視線のみで語られる。最後は離れていく母子の背中を、振り返りながら歩いていく折坂の姿。母子はこの一連の流れで、背中以外になにも見えない。文章ではうまく描写しきれないのでぜひ改めて見てもらいたいのだけれども、こうして振り返ると両者の交錯がかなり凝った描写であったことに気付かされる。そしてここで唄われるのはサビの一部。

産み落とされた さびしさについて

何も 語ることなく歩き始めた

何も語ることなく(ともすると「何も語れない」主体は産み落とされたもの自身かもしれない)折坂が歩き始めて、やがて遠く離れてしまった場所。そこで産み落とされたもの。それこそが「さびしさ」であり、「とんでもないおとし物」だと。そのように考えるのは早計だろうか。

 

思いのほか長くなってしまったので、結論を簡潔に。私見であるが、このMVの主人公は子どもを亡くした男で、何かのはずみで並行世界、もしくは過去に紛れ込んでしまった。そして、もう居なくなったはずの存在を探している。そんな設定が裏にあったのではないかと推測する。

いずれにせよこのMVには、ここまで述べてきた箇所以外でも「死」や「別離」を印象づけるシーンが多い。冒頭、ブラウン管テレビに映るゲームと、部屋中がいやに赤く染まるシーン。砂場で遊ぶ「子供たち」が、「砂浜の文字」とリンクするかのように姿を消すシーン。作業場で「主役」の折坂が唯一「さようなら」と唄うシーン。これらの演出意図を鑑みると―――個人的な結論は上記の通りだ。いつか答え合わせが出来ると嬉しいのだけれど。ひとまずネットの海に放り投げておく。ともかく、素晴らしい音楽と素晴らしい映像で紡がれた作品です。ぜひ一度ご覧ください。

 

最後にひとつ。この解釈はあくまでMVという作品を通じて受けた印象であって、決してこの楽曲自体のテーマだ、と言いたいわけではないことを付け加えておく。自分自身、初めて楽曲を聴いた時の印象は全然違っていて「夢をもって故郷を出たひとりぼっちの男」の歌だと受け取っていた。今更だけど、そもそもこの曲の歌詞は読み手の想像力にかなり多くを委ねてくれるので、一様の解釈になど収まるはずもないのです。ただ彼は「ここではないどこか」「ここにはいない誰か」に向けて「さびしさ」という感情を滔々と唄っていて、それに共鳴した聞き手の中で様々な像が形作られていくのだろう。繰り返しになりますがともかく、素晴らしい音楽と素晴らしい映像で紡がれた作品です。ぜひ一度ご覧ください。そして彼の楽曲を共に愛でましょう。4/1に配信開始された新曲「トーチ」も垂涎ものです。ああああ生で聴きたい。コロナが落ち着いたら、おれ絶対に折坂悠太のライブに行くんだ…