カタツムリの壁

タツムリがビルを食べている。そう彼女は言った。しとしと降る雨で黒に限りなく近づいた濃い灰色にカタツムリが張り付いている。食事中なら雨宿りさせてあげないとね、と、黄色い傘が斜めに傾く。
 
「殻を作るためにカルシウムが必要で、それをブロック塀とかコンクリートから取るんだって。」へえ、と僕は言う。なにそれ、ひどい駄洒落、と彼女は笑う。
 
「知ってたの?」うん、まあ。その手の雑学はそれなりに。「それじゃこれはどう?カタツムリは紫陽花を食べることはない。」ああ、確か毒があるんじゃなかった?
 
不服そうな彼女の様子に少し慌てながら、でも不思議なもんだね、と僕は続ける。自然のものに毒があって、人工物に毒が無いというのは直感に反している気がする。世間でもてはやされているオーガニックに対する嫌味みたいだと、そんな主旨のことを言う。
 
そうだね、と彼女は呟く。雨が傘を打つ音がぱらぱらと鳴り始める。「でもカタツムリってすごいね。このビルも、ほんとちょっとだけだよ?目には見えないかもしれないけれど、確かに削られているんだよね。それは雨のせいかもしれないけれど、少なくとも溶け出したカルシウムを、この生き物は自分の体内に取り込むわけだから。ほんのちょっと穴が開くんだ、ビルに。」
 
それを聞いて僕は夢想する。たくさんのカタツムリがこのビルに張りついて、いつしか溶けてなくなってしまう。この物々しく重厚感のある建物の壁に穴があくということは、不謹慎ながらとても愉快なことのように思えた。
 
がんばって穴を開けるんだよ、と傘を起こしながら彼女が言う。いつかそうなるかもね、と僕は言う。
 
でも、と心のどこかで思う。ひょっとしたら、この壁を食べたカタツムリは、カルシウムだけでない何かを、べったりと壁に張りついた何かを吸い取って、違う生き物になってしまわないだろうか。人工物に本当に毒が無いのかはわからない。殻を固くして固くして、そうする内にいつの間にか、壁から離れられなくなってしまう。中毒。やがて干乾びて死ぬまでずっと。いやもっと言えば、そもそもこの壁はそうして出来たのではないだろうか?最初にあった薄い壁から、ほんのちょっと染み出る栄養を欲して張りついて。幾重にも幾重にも張りついて。やがてカタツムリが壁そのものになる。ゴツゴツとした、重厚で威圧感のある壁。
 
「おーい」と声がした。少し離れたところで彼女が呼んでいる。上げられた傘がカタツムリの角みたいにゆっくりと揺れる。また強くなった雨でより一層黒く染まるビルを背にして、黄色い傘を追いかけていく。